大田先生を偲んで

大田先生との思い出 (中島秀紀)

 自分は中学の時から、先生の話を聞かない生徒であった。大田先生に自由にしてもらって助かった。「火付けと、盗人だけはするな、それだけしなければ後は何をしてもいい」と言われた。自由は楽しかったが、苦しくもあった。テーマは、修士課程から自分で探さないといけない。何も経験がないのに、論文になるテーマを見つけるのは、なかなか難しい。

 博士論文のテーマが決まったのは、博士課程の2年の10月ごろ。D-D炉(advanced fuel)で行こうと思いついた。皆が、まだDT,DTだと言っている時に。それで、15個ぐらい中尾さんと論文を書きまくった。今でもネットのサイト/Research Gateで、当時の論文を見ると、胸が締め付けられる。Y. Nakao, M. Ohtaとの共著を見ると。これで、結局、大田先生のご推薦のおかげで原子力学会の奨励賞をいただいた。幸運な研究者としてのスタートをきれた。それから、助手(いまの助教)のポストを開けてもらっていた。3年間ぐらい。就職の心配はする必要がなかったのも有り難かった。

 当時は、博士号授与の最低条件は、学会誌に、フルペーパー2件であった。いまは、どこでもいいから1件であるが。従い、博士課程を出る時に、博士号をとる人はなかなかいなかった。私も、助手になって大田先生に自由にしていただいて、1年後ようやくとった。

 Life is a dream for the wise, a game for the fool---と言うらしいけど、自分は愚かものであるから、gameというのは良くわかる。論文を書くのもゲームである。この感覚は、ほったらかされたから、鍛えられた。この感覚、どうすれば論文になるのか、を若いときに培われたことは、後々まで役に立った。

 多分、いまは、もうこんなことは許されないであろう、アカハラ、neglectとか言われるのでは。確かに論文のテーマの探しかた、書き方までほとんど教わったことがないので、あちこちに迷惑をかけたのではないのか。論文原稿は、そのまま、研究室のスタッフのチェックを受けることなく、学会誌に投稿していた。査読者の人は大変だったろう。40ぐらいコメントが付いて帰ってきていた。それにひとつひとつ反論を書き、3回以上やりとりして、ようやく論文が掲載された。我々のいまの研究室では、スタッフが厳格に査読する。だから、研究室を通過すれば、ほぼそのまま論文になる。そうするようにしている。

 そう、大田先生の研究室で経験したこと、学んだこと、レッスンは、後で自分の研究室を立ち上げることに大いに役立った。専攻で、全然人気のない研究室を引き継いで、一番人気のある、大学院入試倍率3倍の研究室にしたのは、また別の話。立ち上げに熱中した、そうせざるを得ない、学生15〜20名に夢と希望を与えるよう。全然別の研究室にした。いまでは、応用原子核工学科由来の講座とは、思われないであろう。テーマも原子力から宇宙工学に漂流した。これで、精神を病んだ。あちこち不義理をした。ごめんなさい。何かを得るためには、何かを諦めないといけない。もう20年も前の岐路、いろんな意味で。これで自分の人生は、淡々と進んでいくものと思っていた。さだまさし、「秋桜」、こんな小春日和の穏やかな日はーーーのような。しかし、大田先生から、自分が来た道が、良かったのかと問われているよう、いろんな面で。封印していたものが溢れ出てくる。色んな思いが駆け巡る。後悔が押し寄せる。心が動揺している。なんとか折り合いをつけないといけない。時間がかかっても。先生からの宿題か。だれでも、いつかは考えないといけない、行かなかった道。心穏やかでない。しかし、これだけだと落ち込んで、凹む。正直キツイ。こんなところに出てこれない。多分、池井戸潤、「下町ロケット」かなんかの本、逆境にある人に、かける言葉:拗ねるな、逃げるな、人のせいにするな、そして夢を持て!ようやくこれに思い至り、自分を今支えているのは、自分には夢があること。2030年代には、月の空に核融合ロケットのデモ機を浮かべること、月の空に舞うのを見ること。そのために、まずは九大生を鍛え、論文を書かせること。これで、落ち込みを辛うじて支えている。意外と先生は、私をまだ叱咤激励し、鼓舞されているのではなかろうか。とぼとぼでもいいから前へ歩けと。生きる目的を与えてもらえた。自分なりに、少しでもこれに答えたい。

 幸せであった。はじめに大田先生と出会えたのは。私が、3年生のときに大田先生が、京都から来られた。先生のお部屋に頻繁にお邪魔し、そのとき卒論に核融合のテーマをお願いした。翌年4年生の卒論に核融合炉関係のテーマ:「核融合炉構造材の断面積の評価」を出していただいた。その時、本当に嬉しかった。これ以降ずっと、幸運にも核融合関連の研究ができた。この絶妙の出会いは、一種の奇跡では。

 ここに生前の先生の御功績とご指導に感謝し、お人柄を偲びつつ、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 また、偲ぶ会におきましては、思い出深い人と、再会できました。これも、大田先生のお導きだと思い、深く感謝いたします。(2018.10.27)

中島秀紀

72年九大応用原子核卒、74年修士修了、77年博士単位取得退学、77年同学科助手、83年総合理工学研究院助教授、97年同教授、15年退官・名誉教授、専門:核融合ロケットの設計・原理実証