大田先生を偲んで

大田先生を想う (中尾安幸)

先生との出逢い:

 大田先生が京都から九大に移って来られたのは昭和45年の秋、後期の授業が始まった頃で、私は学部の3年生でした。当時の私は学業に集中できない情けない日々を過ごしていて、本分からは逃げてばかり、偶々出席した授業は長谷川先生の原子炉工学第二でしたが、今日からこの科目の担当は原子炉物理が専門の先生に替わります、ということで大田先生の紹介がなされました。そして、その時その場で、先生が九大でされた初めての講義を聴いたのでした。

 当時の応原は創設間もない頃で、私は劣等生ながらに、自分たちの学科には原子力教育の中心科目たる原子炉物理がないということを漠然と感じていましたが、そんな中で聴いた講義は、これこそ正に求めていたもの、量子論や核物理との繋がりを学生に意識させ、原子炉物理が九大にもたらされたと実感させるに充分の魅力あふれるものでした。

 にもかかわらず、その後出席した先生の授業は最終回の1回きりで、また自堕落な生活に戻ってしまいました。誠に申し訳ないことでした。実にもったいないことでもありました。それでも自分としては、晴れて卒業研究ができるようになったら、研究室は何が何でも大田研究室、大田研に入れてもらおう、と思うようになっていました。

 研究室に入ってからは時間がかかりましたが、何とか学業に向かうことができるようになりました。多くの人に支えてもらったおかげですが、とりわけ研究室に受け入れ暖かく辛抱強く見守って下さった大田先生、色々な局面で助けてくれた中島さん、それと(身内を挙げるのは恥ずかしいのですが)どん底から引き揚げてくれた妻には、今も感謝は言い尽くせません。


放牧型?自由が基本の大田研究室:

 創設以来研究室には「原子炉物理学に関する教育と研究を担当する」という使命がありましたが、先生は学生に研究テーマを押し付けられることは一切なく、特に大学院生に対しては自由にさせておられました。当時は核データ(大澤さんが主導)、原子炉、核融合が研究室の3つの柱とされていて、学生はこれらの枠内あるいは周辺で思い思いにテーマを設定して研究に取り組んでいました。 私は修士1年が終わる頃に中島さんに誘われて、先生がライフワークとされた高速増殖炉の物理ではなく、核融合分野でテーマを設定することになりました。

 40年以上も前の古い工学部体質の中で好き勝手なことに着手できたのは先生のご経歴とリベラルな指導方針があったからこそと思います。先生は九大理学部のご出身で大学院では素粒子論を専攻、物理教室の混乱もあって京大に転出され、そこで初期の成果を挙げて読売奨励賞を受賞されました。その後 原子物理、核物理を経て原子炉物理に到達され、九大に戻って講座を担当されました。常々、学問研究の基本は自由、テーマは自ら設定するもの、自分で責任を取れば何をやってもよい、と仰って私たちを鼓舞されました。他人がやっていること他所でやられていることの後追いではない、独自の研究を奨励されました。少しは応えたと思えるものを挙げると(自分が関係した分のみ、外部との協働は除外)、D-D炉の系統的検討(少なくとも日本では唯一)、炉心プラズマにおける核弾性散乱効果の解析(博士2年の頃、学位のテーマとは別に開始、Nakao-Ohta-Nakashima、Nucl. Fusion 1981はこの主題での最初の論文)、慣性核融合プラズマにおける核反応生成粒子輸送計算法の開発(ご退官後に着手、中島さん本多君と学会賞受賞)ぐらい。特別枠には中島さんが総理工に移って展開した核融合ロケットの研究が入るでしょう。最近のものでは、高温ガス炉を使って核融合炉の燃料となるトリチウムを生産しようという松浦君の提案も世界初です。きっと喜んで下さっていたと思います。省みますと仮令先生とは違った分野やテーマを選んでも、先生の原子炉物理の教えは常に私たちの中に在り、その精神と手法を核融合等の研究で展開していたのだという気がします。

 その後私は中島さんの後釜として研究室の助手に採用され、大田先生の後を引き継がれた工藤先生のご理解とサポートもあって、大学教員の道を歩むことができました。六十を過ぎてからの自分自身の研究は、地上の核エネルギーよりも、原始宇宙や太陽中心部での元素合成(非熱的な核反応の効果)に重心が移ってしまいましたが、これも炉物理的発想によるもの、先生には容認していただけたものと勝手に思っています。

 反省すること、今も後悔していることは山ほどあります(私に限らず他の人も?)。最たるものは核弾性散乱。これこそ自分の学位のテーマとし、もっと早い時期にもっと深く突き詰め、追及しておくべきでした。当時は先進燃料炉のイオン加熱への寄与と反応特性の向上しか頭になく、将来の測定と繋がる筈の反応生成粒子(特に中性子)のエネルギースペクトルに思い至らなかったのは不覚でした。また、成果は誰でも使える簡易式にまで仕上げておくべきでした。先生には、欧米の研究者の徹底した追究を見習いなさい、しつこいくらい議論しなさい、とよく言われていたのですが---。救いは、松浦君が自身の課題の一つとして引き継ぎ頑張ってくれて、核融合科学研究所の装置を使って実験がなされるまでになったことです。あれから40余年、感慨深いものがあります。

 ここで楽しかったことから一つ。私たちは先生の話を聞くのが大好きでした。それは定例のミーティングの場であったり、先生の部屋であったり、学生研究室だったり色々でしたが、月1回程度のペースで開いていたビール会は格別でした。秘書さん(初代は現・中島夫人の本田さん、続いて大石さん、古賀さん、最後は三橋さん)も交えて実に楽しいものでした。先生には旧制高校の頃のことから大学時代の話、学問に没頭された京大時代のこと、フランスでの研究など、興味深い話をたくさん聞きました。こよなく大切にされたご家族、奥様のことも。


ご退官後の先生と研究室:

 帝京に移られてからのことは新年会などの折によく伺いました。大牟田にできる新しい医療技術専門の学校、その構想の段階から参加され、立ち上げから軌道に乗るまで、学生勧誘のための高校回りから海外実習の引率まで、大事なことを責任者として文字通り先頭に立ってなされました。九大退官後も先生が変わらず精力的に教育に取り組んでおられる姿は、私たちの喜び・誇りであり、私たちへの励ましでもありました。帝京に行かれた後もずっと研究室のこと、特に研究費のことを心配して下さり、20年にわたって共同研究という形で経費の補助をして下さいました。実に有り難いことでした。

 楽しかったこと嬉しかったことをもう一つ。それは学会や国際会議、中でも2~3年に1度開かれた国際会議ICENESのことです。案内を送ると必ず来て下さいました。先生の九大最後の年度、86年夏のマドリード会議から始まってカールスルーエ、モントレー、幕張、アムステルダム、テルアビブ、アルバカーキ、ブリュッセル、最後は08年のイスタンブールまで10回近くも一緒に参加できたことは、忘れられない想い出です。 昼間は弟子や孫弟子の発表を見守られ、夕べは食事とワインを夜が更けるまで。全部先生がごちそうして下さいました。


振り返って:

 ‘ものづくり’が苦手で実験は出来ない、数式いじりぐらいしか能がないということが分かって、工学部に入ったことを後悔することが多かったのですが、しかし大田先生に出逢うことができました。何処にいてもやることはある、正に‘人間到る処青山あり’、自分なりの流儀で精一杯やればよいのだと思えるようになりました。先生が九大に来られなかったら、その後の大学教員・研究者としての自分はなかったと思います。有り難さが身に沁みます。

 学問上の親ともいうべき恩師大田先生が亡くなられて半年が過ぎ、自分としては漸く、教わったこと、受けたご恩と言い尽くせない感謝の気持ち、その他の色々なことが整理されて、胸の奥深くに、この上なく大切なものとして収まったところです。取り出し自在なので何時でも想い起こすことができます。(長嶋選手の引退挨拶ではないですけど)私の中の大田先生、大田研究室は永遠です。

(平成30年11月7日)

中尾安幸

73年九大応用原子核 卒、76年修士修了、79年博士単位取得退学、 83年同学科助手、90年助教授、98年教授を経て13年工学研究院を 定年退職・名誉教授、14年九大グリーンアジア国際戦略プログラム 特任教授。この間学部では原子炉物理学、原子物理学、量子力学Ⅰ、 核融合概論、大学院では核融合プラズマ科学の講義を担当。